自分のつれあいについて

離婚する人としない人は紙一貫の違いです」愛の年輪を紡ぐ愛を紡ぐ年輪今、人生八十年、結婚五十年時代を迎え、夫婦の時間は昔の倍も長くなった。人生五十年時代には、子育てが夫婦に課せられた役割であった。しかし、今は、子育てのあと三十年もの長い夫婦の歳月がある。夫は仕事、妥は家事、育児という役割主義では生きられない時代になった。高齢化時代を夫婦共々・幸せに生きる鍵は、平凡なことのようだが、やはり、お互いの思いやりではなかろうかと私は考えている。互いに育ち合い、支え合い磨き合ってこそ、夫婦という名の紳を深めることができるのではないだろうか。今も、そして過去のほとんどのときも、私は幸せだったと思っている。しかし、人聞は、結局は一人で、孤独に死んでいかなくてはならない存在であると自分に言いきかせているつもりである。たとえば、今まで、仲よくし、親切にして下さった友人でも、私が困って泣きつきにいったと「ごめんなさいね、南さん。今、家の方でいろいろあって何もしてあげられないの。またいつかできるときにね」と言われても、それは、友人が悪いのではない。人生には、そういう場合だって充分起こりうるのである。第一、病気で動けなければ、気持ちはあっても何もしてあげられないし、してもらえない。自分のつれあいについても同じである。いくら愛してくれていても、病気もすれば、死は等しく訪れる。それに、ちょとしたはずみで、「こんな女はいやだ」と思わない保障は一つもない。どんなに誠実な人でも、人間の気持ちはうつろいやすいもの、ふとしたきっかけで別の人を愛してしまうことだって「ない」とは断言できない。夫は、私のことを愛し始めたとき、損得の計算などは何もなく、理屈抜きに愛してくれた。その後も、自分が愛した以上は責任をもって愛し貫こうとしてくれているように思うときがたびたびある。他の男性だったら、こんなとき、怒り出すであろう、どこかへ飛び出していくだろう、と思える場合にも、許してくれた。だからといって、未来に何も起こらないとは誰も断言はできない。夫は、叩いたり、物を投げたりとか、暴力を振うことは一度もなかったし、これからも決してきない人だと思う。それだけに、心の片隅に、耐える気持ちがつみ重なって、それが、いつか大きくなって爆発しないとも限らない。私はしたいことをして、幸せに生きてきたし、困ったことがあれば、夫に相談すれば何とかなってきた。